松前が誇る光善寺の桜
光善寺境内には、日本の名木ともされているサクラの古木「血脈(けちみゃく)桜」や、清楚で優雅な雰囲気を感じられる「光善寺白八重桜」が生息しています。
血脈桜の樹齢は推定300年以上、北前船とともに運ばれた日本海文化のひとつと推察されています。松前を代表する早咲き桜の品種・南殿(なでん)の親木ともなっています。

開花時期

光善寺の桜は、例年およそ4月下旬ごろに蕾が開き出し、5月上旬頃まで満開の桜が咲きます。光善寺境内周辺では多くの桜を鑑賞できますが、光善寺本堂前にある高さ約8m、幹周り5.5m、樹齢300年以上の「血脈桜」が満開になった姿は圧巻です。

4月中旬

蕾が開き始めます

4月下旬

桜が咲き始めます

5月上旬

桜が満開に咲きます

※開花時期は天気などにより変動します。詳しい開花時期はTOPページ「桜の開花情報」にて都度更新いたします。

血脈桜のおはなし

血脈桜の伝説その1

今から三百数十年前、松前城下の生符町(いげっぷ、現在の大磯)に柳本伝八という鍛冶屋がおりました。若い頃から上方見物を夢見て一生懸命、精を出して働いておりました。やがて跡取り息子が、家業を継ぎ永年の上方見物の夢がかなうこととなり、娘の静江を伴って松前を船出したのは春まだ浅い頃だったことでしょう。見るもの聞くもの皆珍しい江戸を見物し、東海道を上がってお伊勢参り、京都の名所旧跡を訪ね、百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)松前光善寺の本山では、先祖の供養にお経をあげてもらいました。
奈良をめぐり、吉野山に着いた二人は山を彩る桜の美しさに魅せられ、しばらく宿をとることにしました。宿の近くに尼寺があり、若い庵主と娘の静江はたいそう仲良しになりました。やがて松前への帰郷の日が来ました。名残を惜しんで、若い尼僧は一本の桜の苗木を静江に手渡し「国に帰られたらこの桜を私と思って植え育てて下さい。」というのです。松前に帰った親娘は菩提寺である光善寺の前庭に植えてもらいました。桜は年毎、美しい花を見せ、人々の目を楽しませるようになりました。

血脈桜の伝説その2

日本時は流れて伝八や静江はもう世にありませんが、桜は大木となりその名花ぶりは松前の評判になっていました。ある年のこと光善寺では古くなった本堂を建て直すことになりこの桜がどうしても邪魔になり、切り倒しの相談がまとまりました。切り倒しの前日の夜のことです。住職の枕元に桜模様の着物の美しい娘が現れ、涙を浮かべて「私は明日にも命を失う身でございます。どうか極楽浄土へ行けますようにお血脈をお授け下さい。」と願うのです。住職は夜も更けており「明朝にしてくれ」というのですが、娘は聞き入れる風もなく、ただ泣くばかりで、やむなく住職は念仏を唱えお祈りし、血脈を与えたのです。
娘は丁重にお礼をいい住職の前から姿を消しました。住職には何かしら夢うつつのような出来事でした。翌朝、ふと切り倒す桜を見上げていると、枝先に何か白い物が結び付けられていました。近寄って見た住職は、一瞬声をのんでしまいました。何と昨夜あの娘に与えた「血脈」ではありませんか。「そうか昨夜の娘はこの桜の精だったのか」直ちに桜を切り倒すのを取り止め、盛大な供養をしました。本堂改築の縄張りも変えられました。明治36年2月6日光善寺が火災で焼失した時、幹が焼けましたが現在の姿に復活したそうです。

血脈桜 概要

樹  齢
約320年(※2022年現在)
樹  高
約8m
幹まわり
約5.5m
生息地域
日本で唯一、光善寺境内のみで生息
品  種
マツマエハヤザキ(松前早咲)、別名「ナデン(南殿)」
特  徴
桜が散る時期に向けて、徐々に花の中央部が紅色に染まっていく(これを「移り紅」と呼んでいる)

光善寺白八重桜のおはなし

白八重桜とは・・・

松前町の光善寺に古くからあった桜で、昭和29年(1954)に調査を行った時は、既に親木は枯れてヒコバエで行いました。その後、接木で増やしていきました。
昭和40年(1965)、桜研究家が来町した際に見ていただきましたが、該当する園芸品種がありませんでした。昭和43年8月(1968)、光善寺住職と協議の上、「光善寺白八重桜」と命名。清純優雅で美しい桜です。